20060806:


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20060409:

 何事もそうかも知れないが,統計の勉強も恋愛みたいなものである。気にならないとその存在がさっぱり分からないが,気になり始めるとのめり込んだりもする。もうちょっと具体的に例えると,表計算ソフトのエクセルを学ぶ必要性を感じるか感じないかというのに似ているだろうか。
 私も恋愛の極意ばかり見聞きして,彼女いない暦が続いているような人間だ(って例え話だよ!もちろん…)。そろそろお仕事で統計を使う機会が訪れるようなので,極意本を取り出したり探したりといったところだ。
 オーム社のマンガでわかるシリーズは侮れない。萌え系が苦手な人たちも我慢して読めば,入門としてなかなか得られるものが大きいと思う。SPSSの関連本は,東京図書がたくさん出している。じっくり選んで,自分の好みに合わせてセレクトした方がいい。
 この前,セミナーの懇親会で「最近は共分散構造分析が流行っている」と小耳に挟んだので,それに関する書物を探してみた。もっと堅いのもあったが,入りやすいものをピックアップ。まだ私も勉強中だ。

 ところで,一般の人たちは「統計」と聞くと,ある一つの目的や方法に基づくものだとイメージしがちだが,統計という分野には記述統計とか推測統計とか,したいことによって分化した世界が広がる。つまり少なくとも,分析をして傾向や原因を突き止めたいという目的と,分析をもとに結果を推測したいという目的は,全く異なる要求だし,そのために使う統計解析手法もそれぞれ違うということだ。
 ところが統計の教科書は,様々な統計解析手法を怒濤のように並べて紹介するので,なにやら難解な世界が展開して,これすべて理解しないと統計できないと勘違いさせやすい。かといって,統計の教科書を作るのは大変なバランス感覚が必要みたいなので,これもまた自分と相性のよい教科書を探しに探して出会うしかなさそうである。ここにあげた以外にも統計に関する本はたくさんあるので。

 ちなみに統計には数式がつきもの。これが大きなハードルになっているという人も多い。数式が表そうとする考え方や理屈が理解できるようであれば,数式自体は無視してもいいと思う。ただ,その考え方や理屈を示すのにもっとも適したものが数式だから,これは悩ましい通過点。とりあえず次の本で勉強してみてもいいかな。


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20060225:

 

 

 
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20060130:

 ニートの存在を自己責任の問題として捉えるフレームが流布する背景には,心理学からのこうした成果報告とのリンクが形成されてしまうからだろうか。『心理学化する社会―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか』に論じられているような世相の中で,いろんな問題がごっちゃになっているのかも知れない。
 1章の「配慮」という強化子の話は,こういう記述が出来るのかと少し新鮮だった。「教員は確率操作に簡単に応じて,強化子そのものを大きくしてしまう。」というくだりは,私も「あ,いいよいいよ」と何気なく学生に配慮してしまうような場面がそれにあたるのかと思うと,妙に納得してしまう。これが多数の教員によって積み重ねられていたら,なるほど大きくなるわけだ。
 個々の章は,さほど文章量は多くないものの,ぎっゅと詰まったスリムな論文が並んでいる。興味深い。

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20060127:

 教育改革の話題は次から次へとキーワードを衣替えする。自由化,ゆとり教育,学級崩壊,心の教育,学力低下,そしてそれらが絡まって義務教育の見直しへと来ている。そこには制度的な構造改革や教員養成教育の問題など多岐にわたる問題が絡まっている。それらを確認したり,義務教育費国庫負担に関わる問題を詳しく知るのに便利な本だ。

 この本を読むのはまだこれから。できれば本田由紀氏の『多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで 日本の〈現代〉13』を先に読みたいのだが,実はこの分野は安易に足を踏み入れると危険な気がして躊躇っている。とはいえ「教育と労働」という問題系は,避けて通ることは出来ないことも事実だ。
 本田氏に対する印象には,氏の「学力低下議論」報告書を読んだときのちょっとした違和感も伴っている。同時期に同様な内容をウォッチしていたので,それを要領よくまとめ上げるセンスはさすが教育社会学者だと感心しながらも,「レリバンス」を高める抜本的なカリキュラム改革や習得主義を主張するところは,私がのろまなカリキュラム研究者のせいだろうか,軽やかに指摘できるのはいいなぁと捻れた羨ましさを感じたのだった。

 義務教育段階に限らず教育におけるカリキュラムの抜本的な改革を行なう必要性は高まっている。いや,それは不断の努力として続けて行かなくてはならないのだろう。
 しかし,時代の空気というのは恐ろしい。「ニート」って言うな!とあなたが言うなら,「義務教育の危機」って言うな!と私は言わないといけないのだろうか。20年前のこの本は,当時「自由を目指した」義務教育の現状を追いかけた新聞記事がもとになった。そこには「ゆとりの時間」導入に際して起こった混乱が記され,学校の主体性について触れる節でこう書いている。
 「カリキュラム,この,文字通り各学校現場の裁量と責任に委ねられている基本的なことがらについて,当の学校が,いかに当事者能力を欠いているか。教育委員会や文部省の行政がいかに機能していないか。」(94頁)
 20年が経過してなお,この嘆きが通用してしまうとしたら,それはそれだけ解決に時間がかかるという問題なのか,それとも解決への取り組み方がまずかったのか,あるいは何も取り組まなかったのか。果たしてどれだろう。

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20060122:

 教育議論そのものを扱った本はいくつかあるが,もっともアグレッシブなものといえば,この人が書く本。物事を論理的に考えることに関しての文章から伝わるクールさは,見習わないといけないなと思う。手に入りやすい新書として上梓されたのは喜ばしいこと。小笠原喜康『議論のウソ (講談社現代新書)』なんかとあわせて読むのもいいか。


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明治図書:Eduブログ

 昨年末に明治図書が教育関係ブログのポータルサイトEduブログ」(http://edublog.jp)をオープンした。明治図書の関連雑誌で活躍したり縁のある現場の先生方のブログが見られたり,登録すれば無料でブログが開設できるシステムになっている。すでにブログを開設している人は,用意されたジャンルメニュー毎にトラックバックのURLが用意されているので,それを利用すれば記事を掲載させることができる。

 ブログ毎のスタイルや温度は様々だが,こうして現場からのつぶやきや思考が広く発信されるようになるのは,どんな形にしろ一つのパイプとして大事にすべきだろう。個人情報保護法の施行前後には,学校組織で知り得る情報を外部にさらけ出す危険性について過剰な反応もあった。学校のホームページから息づかいが消えて,人気のない写真ばかりが並ぶ。学校との距離はますます遠くなりそうだった。そうした距離を少しでも埋めるのにブログが役立てばいいと思う。

 まあ私は次,教育関連ポッドキャスティングで先へ進みますので,皆さん早くついてらっしゃいね(なんちて)。