20060127:

 教育改革の話題は次から次へとキーワードを衣替えする。自由化,ゆとり教育,学級崩壊,心の教育,学力低下,そしてそれらが絡まって義務教育の見直しへと来ている。そこには制度的な構造改革や教員養成教育の問題など多岐にわたる問題が絡まっている。それらを確認したり,義務教育費国庫負担に関わる問題を詳しく知るのに便利な本だ。

 この本を読むのはまだこれから。できれば本田由紀氏の『多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで 日本の〈現代〉13』を先に読みたいのだが,実はこの分野は安易に足を踏み入れると危険な気がして躊躇っている。とはいえ「教育と労働」という問題系は,避けて通ることは出来ないことも事実だ。
 本田氏に対する印象には,氏の「学力低下議論」報告書を読んだときのちょっとした違和感も伴っている。同時期に同様な内容をウォッチしていたので,それを要領よくまとめ上げるセンスはさすが教育社会学者だと感心しながらも,「レリバンス」を高める抜本的なカリキュラム改革や習得主義を主張するところは,私がのろまなカリキュラム研究者のせいだろうか,軽やかに指摘できるのはいいなぁと捻れた羨ましさを感じたのだった。

 義務教育段階に限らず教育におけるカリキュラムの抜本的な改革を行なう必要性は高まっている。いや,それは不断の努力として続けて行かなくてはならないのだろう。
 しかし,時代の空気というのは恐ろしい。「ニート」って言うな!とあなたが言うなら,「義務教育の危機」って言うな!と私は言わないといけないのだろうか。20年前のこの本は,当時「自由を目指した」義務教育の現状を追いかけた新聞記事がもとになった。そこには「ゆとりの時間」導入に際して起こった混乱が記され,学校の主体性について触れる節でこう書いている。
 「カリキュラム,この,文字通り各学校現場の裁量と責任に委ねられている基本的なことがらについて,当の学校が,いかに当事者能力を欠いているか。教育委員会や文部省の行政がいかに機能していないか。」(94頁)
 20年が経過してなお,この嘆きが通用してしまうとしたら,それはそれだけ解決に時間がかかるという問題なのか,それとも解決への取り組み方がまずかったのか,あるいは何も取り組まなかったのか。果たしてどれだろう。

以上